古流は江戸時代中期、明和年間(1764-72)ごろに生花様式をもって発生した流派です。端緒は明確にはできませんが、一般に、明和7年(1770)百花園主人編集の「瓶花群載」に花型図が収録されている今井一志軒宗晋をもって創始者としています。
宗晋にまなび、その意思をついだのが松応斎
安藤凉宇(1734-1807)であったと伝えられています。
その凉宇の門下のなかで古流の名をひろめ、中興の祖とうたわれたのが松盛斎
関本理遊(1772-1849)でした。理遊は江戸後期文化の開花期に古流の総帥として活躍をつづけ、「古流生花百瓶之図」などの多くの出版物を上梓するなどして古流の普及につとめました。その門人は江戸、北陸をはじめ全国に及んでいます。
関本家の女婿として養父理遊の松盛斎を継承したのが古流四代家元を名乗った関本理恩(1806-1878)でした。理恩は古流における天・地・人三才の働きを理論的に整理し内容の意味づけをほどこして伝書を成立させるなど、主として学説的な面で貢献しました。理恩は理遊から受け継いだ雅号の「理」名をひきつづいて門下に名乗らせ、さらにくりかえし伝える慣習を定着させたので、今日のように古流の雅号がすべて「理」名に統一されるということになりました。
理遊と理恩の二代にわたって古流を学んだのが武州川越にすんでいた松真斎榊原理全(1813-1900)です。神官職であった理全は明治維新の後もそのまま川越にとどまりましたが、その理全に手ほどきをうけ、また理恩にも直接師事した松藤斎池田理勉(1840-1924)が、明治24年に東京本郷に居を移して教授活動をはじめるようになりました。
こうした事情で松藤斎の系譜は、理遊=理恩ののち理全=理勉の形をとります。
松藤斎を名乗った理勉一門のグループ名は「不二会」でした。古流松藤会の前身ともいえる集まりです。
理勉は明治34年(1901)に引退し、松藤斎の号を初世池田理英(1866-1944)が継承します。明治末年の黄金期は、古流いけばなにとっても飛躍充実の時代でした。
二世家元(理英)の活躍が固まって「古流松藤会」の創立を見たのが大正5年(1916)の春のことでした。
このようにして誕生した古流松藤会は昭和年代に入って初世池田理英を軸とする幹部の人達によって全国的な基盤が築かれていきました。そして第二次世界大戦が終わり、新しい混乱の中で三世家元(1906-1999)を中心とした組織づくり、さらに「現代華」の研究が進められることになります。「伝統と個性」を標榜した古流松藤会のいけばなは時代の要求とマッチして内容的にも組織的にも大きく飛躍することなりました。
昭和41年、文部大臣から社団法人の認可を受け、法人を統括する会長には池田理英、長男池田昌弘(1930-2002)が副会長に就任し、文化庁の指導そして定款の規約に従って社団法人組織として活動することとなりました。その後、昭和54年に役員改選が行われ、会長に池田昌弘、常任顧問に家元池田理英が選任されました。平成11年7月、三世家元理英は93歳で逝去しました。
継嗣・昌弘会長は「理名」を名乗らず本名で四世家元を継承し会長職を兼任しました。しかし、残念ながら平成14年3月病気のため急逝しました。
平成14年6月、池田理陽(故池田昌弘会長夫人、1936-)が古流家元松藤斎五世を継承し、三代目となる「池田理英」を襲名しました。五世池田理英家元は社団法人の会長職も兼任し、新古流アカデミー会館の建設など組織の充実を計るとともに、実践を踏まえての生花講座を開設するなど、新しい取り組みなども推し進めてきましたが、平成21年12月、享年73歳で逝去致しました。
平成22年1月、野原理鳳(三世家元 池田理英の姪孫)が古流家元松藤斎六世を継承し、四代目「池田理英」を襲名、社団法人組織としての古流松藤会々長には野原理晴(三世家元 池田理英の姪)が就任しました。家元と会長、一体となって今後の古流松藤会の一層の発展を目指すと共に、いけばなを通しての芸術文化の振興に寄与するべく活動を続けています。
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